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巨大で緻密な建築物としての音楽
— 演奏で宇宙を表現する

私はロシアピアニズムという方法論(=奏法)を用いて音楽的なテクストと向き合い、その理解を楽器演奏という形で発表している1人の個人だ。(恐縮ではあるが)ピアニストと呼ばれることもあるのかもしれない。 そんな1人の人間として音楽をいかにみなすか、そして演奏行為をいかに捉えるかを考えてみたい。

演奏芸術において音楽を一つの建築物としてみなしてみてはどうだろうか。演奏された音楽には例えば「構造」「音色」「修辞性」「装飾」のようなものがある。大聖堂や神殿などの宗教施設をはじめとして連想できる限りであらゆる可能性の精神的な建築物を想定してみよう。 確かに大聖堂には設計図(構造)があるしステンドグラス(色合い)があるし様式のようなもの(言語表現で言うところの言い回し、修辞)がある。また細かな彫刻作品(装飾)もしばしばみられる。 これは音楽の持っている普遍的な条件と相似を成していないか。 この対応づけは何も奇抜や話ではない。しばしば後期ロマン派の大作曲家A.ブルックナーの作品はその巨大構造性からまさに大聖堂の建築になぞらえて例示されることがある。

なぜ私は「建築」にこだわるのだろうか。 音楽というのは時間変化に伴って完結される一種のパフォーマンスという側面があり、耐久性を持った「作品」ではないからこそゆえに無視されている、その構築性に着目する際に「建築」、それも特に宗教的で精神的な建築は好例となるように考える。

この考え方は私が伝授されたロシアピアニズムのダイナミクスレンジ(音量の幅)の広さとも相性がいい。つまりオルゴール的な小宇宙の表現からオーケストラ的な大宇宙の表現までを可能にする機構としてのピアニズムとよく合致するというわけである。 私の恩師のイリーナ・エーデルシュタインにはとても優秀なピアニストの甥がいた。その名はミヒャエル・クラフチン。クラフチンはドビュッシーを得意とする点からも分かるように音色を大事にする芸術的趣味のピアニストでありながら、エーデルシュタインにだけでなく、あの巨匠アナトール・ウゴルスキ(Deutsche Grammophonと契約し名レコードを発表したレニングラード楽派のピアニスト)にも師事したということで、力強く構築的な和声感覚を持ったピアニストでもある。実は私は彼のマスタークラスを受講したことがあり、インド古典学への転向がなければ彼の下でBachelor(学士)をやる予定だった。 そのクラフチンの先生のウゴルスキがある書物で言及していたのだが、日本の庭園は箱庭的な自然であり、ロシアの自然といえばどこまでも広がる巨大なものだとの主旨のコメントをしていた。 確かにロシア系の巨匠は大自然を舞台にした横綱相撲で果敢にマスターピースに挑む人が多い。そして日本のピアニストは繊細で緻密ではあるが、どこかしら一つの枠組みを事前に決めてしまってそれ以上の大きな表現は敬遠している節がある。

そこで私は考えた。自分の中にドイツ古典派の幼児教育とエーデルシュタイン流のロシア本流の基盤教育が共存しているが、フランス音楽やスクリャービンなどの印象派的な音色の表現の探究や細かなトリルやトレモロの微細な表現の妙から、ブラームス的な交響性とロシア的な多面的な立体構造まで全ての可能性を両立できるような音楽的信条はないかと。その結論が「大聖堂(あるいは神殿)の建築」というテーゼだった。

私はユダヤ教とユダヤ文化に関心があり、ユダヤ系の芸術家には分野横断的に触れるようにしている。その中でも一つの大きな「事件」だったのがクリスチャン・ボルタンスキーによる「死んだスイス人の資料」という作品を東京都現代美術館で鑑賞したことだ。この芸術家の作品について説明することは今の私には能力の範疇を大きく超えるので、他の媒体に譲るとして、この歴史を背負った観念の塊のようや作品に「文化的背景」というものの意義を感じたことが大きな点だ。そして後日ボルタンスキーの回顧展の図録を取り寄せ読んでみると、彼がユダヤ教と仏教について対談している章で「ユダヤ教徒にとって神殿は心の中にある」というようなことを言っている箇所を見つけた。この観念は私を突き動かさせた。 そして音楽とはまさに人間の心の反映でありそれは心にある各々の「原理」の表れではないかと考えるに至った。この「原理」の使い方をよく覚えていてほしい。続く検討で再び出てくることになる。

ここで別のユダヤ文化を背景に持つ識者に登場してもらおう。それはハンナ・アーレントである。 私は一昨年から1年かけて哲学・倫理学をライフワークとしている友人などと彼女の主著『人間の条件』を読んだ。毎月拙宅で集まり昼食をふるまい、そしてコーヒーを飲みながら毎回一章ずつ読んだ箇所の議論をする。 その中で私の三本柱(ピアノ、数学、言語)の一つである数学に関する主張が最後の章に出てきた。 「数学とは人間の精神の一つのあり方であり、物理学によって世界に数学的な「原理」が見出される、つまり世界が数学で記述できるのは、まさに人間の精神こそが世界の一部であるからだ」(雑な要約)というような主旨の主張を彼女はする。 この考え方には衝撃を受けた。一部の自然科学者たちと同じように数学という一つの言語と、世界の側に一つの大きな対応が得られるのはまさに神秘であり、そこは不問なものだと考えていたからだ。

数学という原理が実は世界の表現の方法であり、まさにそうであるがゆえに世界を映し出す、としたら、人間の精神性という原理の器である芸術作品(テクスト)は何と対応するのか。これもやはり世界のあり方ではなかろうか。重要なのは(純)数学も音楽もそれ自体は自然言語とは別の記述体系であるということで、特に音楽は人間の精神活動の産物である情念の流動性をうまく表現できる。情念と世界のあり方の間には断絶があるだろうか。私はそうは思わない。つまり情念も人間の神経回路的な自然現象の一つであり、電気信号や生理的物質の一つのシステムとして現出するからだ。要するに情念のメカニズムも人間が一つの生物的な存在者として持つ性質であり、それも自然科学によって物質的・電気信号的な議論に還元して説明できる。そういう意味では情念だって世界の原理の中にある。 情念の表現は芸術の醍醐味の一つだからそのようなものを「カガク」と呼ばれるバケモノによって説明してしまってよろしいのかと反論が来るかもしれない。私はこう答える。 すなわち、今問題にしているのは自然的な観点によって説明される時にそれは自然(=世界)の原理内にあるという話であり、それは情念が文学や美術、映像、そして音楽などの枠組み「にも」収まっていることを否定しないということだ。

整理しながら、最初の問題点に戻ってみよう。 楽曲演奏や楽曲そのものを「大聖堂や神殿などの建築物」に例えてみた。そして「神殿(インスピレーションの源泉、精神的な拠り所)とは人の心にあるもの」という立場を紹介した。 そして数学という原理は世界の表れなのだから、数学と世界が対応のは自然だともいう話もした。 さらに敷衍して、音楽がよく表せる情念のダイナミズムもまた、情念が一つの自然現象の産物であるがゆえに自然と関係している、とも述べた。

古代ギリシャのピュータゴラス学派を挙げるまでもなく音楽と数学の原理は通底しているとされる世間一般の雰囲気はある。もちろん音響学や波動振動論などを媒介にして音楽と数理の強い結びつきは示せる。 そしてまた、音楽という基盤の中にも音楽理論があり音楽理論は現代数学の圏論や群論の枠組みの中で記述できることもわかっている。 以上に挙げたことはもちろんそうなのだが音楽と数学の両者の根源的な相似性は、何よりそれが人間の精神の働きに依存しまたそれに作用するところに思われる。

数学では「写像」(出力がただ一つに定まるような「対応」のこと)という概念が頻出だが、音楽表現自体も空間間の何らかの対応関係とみなせないだろうか。 例えばピアノという楽器は指などによる身体運動を音響的出力に変換するものだ。ピアノは関数とはよく言ったものだ。 また、音楽表現も情念やアイデア、理解など、感性や知性の空間を音響世界に対応付けるものだと理解できないだろうか。

音楽を演奏するとは単に音や休符の羅列を生み出すものではない。演奏家という芸術の主体が世界や社会という環境の中で感じ考え、そして無意識にアイデアとして浮かんでくるようなものを音響装置としての楽器を媒介して音楽的表現へと変換することだ。もちろん何らかの感性的知性的対象を「作品」に変換することは作曲家がすでにやっている。しかし我々はその作品への敬意を背景にしながらやはりその時の自分の心の状態や、心の原理を演奏という形で音に反映しなければならない。そうでなければ個性や即興性という現代の音楽畑の重要タームは全面的に否定されてしまうことになるだろう。

そして音楽を一つの「聖堂や神殿のような建築物」とみなすことはどのような効果を生じるだろうか。芸術とは世界において日々を生きる万人への祝祭であり祝福でなければならない。音楽もその一つである。芸術の構成要件の一つには「鑑賞主体」があるだろう。つまりいくら崇高な音楽とて聴かれなければ本来の意義を発揮できない。宗教施設で祈られなければその施設は用途を満たされないのと相似だ。

音楽は極めて精神的なものだ。精神の波による反映である。そしてロシアピアニズムの力強さとは単に強音によって威信を誇示するためにあるだけではない。微細な色合いから絶対的な構築性まで全てを反映する受け手(対応でいうところの値域)の強靭さを担保するために、さまざまな音楽表現を学ぶのだ。 音楽は単に学ぶためだけにあるわけではない。学ぶことはそれ自体が目的になりうるが音楽とは何かを共有するためのものだ。まず第一にテクストの内容だが、それだけが目的ならある意味で作曲家の自演以上に意味を持つものはないとなる。しかし違う。現実には演奏行為は個性や人格、そしてアイデアの表出を可能にする。

これまで少しばかり考察を深めてみた。 音楽の定義は人の数だけあっていいし、一人の個人の中でも移ろいゆくものだ。しかし、私の試みの意義はさまざまな観点から音楽というものの実体と機能を見つめ直すための枠組み作りにあるように考える。

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